荘子

 

訳者    金谷 治

出版社   岩波文庫

 

荘子は世俗を捨てた人の思想と言われている。私はとても世俗を捨てるまで枯れているわけではないが、若い頃からなぜか荘子の魅力に惹きつけられている。孔子と対照的なその思想はいろいろなところで私が関心を持った人の考え方の背後にあった。

 

以下気になるフレーズをいくつか拾っている。(漢字の記載ができないので金谷現代語訳で記載)

    斉物論篇第二の三

そもそも、ものを言うのは、音を吹き出すことではない。ものを言ったばあいには言葉の意味がある。その言った言葉の意味がまだあいまいで落ちつかないのなら、はたしてものを言ったことになるのか、それとも言わないのと同じなのか。「もちろん言わないのと同じだ。」それでも雛鳥の鳴き声とは違うといったところで、そこに区別があるのか、それとも区別がないのか。「結局、区別がない。そして、俗人の言葉にはこういうのが多い。」道は「ただひとつの真実であるはずなのに」いったいどうして真実と虚偽とがあらわれたのか。言葉は「もともと素朴であるはずなのに」いったいどうして善し悪しの判断があらわれたのか。真実の道はどこにでも存在しているし、素朴な言葉はどんな場合にも肯けがわれる。道は小さいでき上がりにとらわれることから「真偽を生み」、言葉ははなやかな修飾にとらわれることから「善し悪しを生んだ」。<中略>

    彼と此れとがその対立をなくしてしまった(−対立を超えた絶対の)境地、それを道枢「−道の枢(とぼそ)」という。枢であってこそ環の中心にいて窮まりない変転に対処できる。<中略>だから、「善し悪しを立てるのは」真の明智を用いる立場に及ばない。

    斉物論篇第二の四 

一方での分散は他方では完成であり、一方での完成は他方では破壊である。すべての事物は、完成といわず破壊といわず、みなひとしく一つのものである。ただ道に達した者だけが、みなひとしく一つであることをわきまえて、そのために自分の判断を働かせないで平常「ありきたりの自然さ」にまかせていく。平常ということは働きのあることであり、働くということは広くゆきわたることであり、ゆきわたるということは自得「すなわち自己の本分をとげて自己の生を楽しむこと」である。

    斉物論篇第二の六

そもそも分類するということは分類しないものを残すことであり、区別するということは区別しないものを残すことである。それはどういうことか。聖人は道をそのままわが胸に収めるのであるが、一般の人は道に区別を立ててそれを他人に示すのである。そこで、区別するということは「道について」見ないところを残している、というのである。

 

    則陽篇第二十五の九

少知はまたたずねた、「世界の始めについて、」季真はしわざをする主宰者などはいないと主張し、接子は万物を使役する主宰者がいると主張していますが、この二派の議論は、どちらが真実にかない、どちらが条理をはずれているのでしょうか。 

    大公調は答えた、(鶏が鳴き犬が吠えるという現実は、これはだれにでもわかっていることだ。しかし、どんなすぐれた知恵者でも、「鶏や犬が生まれてきた」その自然の造化の働きを、言葉によってはっきりと説明することなどはできない。またその造化がこれからなにをしようとしているかということも、心によって推しはかることなどはできない。「造化のはたらきは、」分割して小さくしていく場合には、その微小なものは形をもたないところまでゆくだろうし、大きいとなれば、それは何ものにもわくづけられないところまでゆくだろう。「この世界の始めについて、」使役する主宰者がいるとか、しわざをする主宰者などはいないとかいう議論は、現象の物の世界にしばられたもので、要するに誤ったことである。使役するものがいるといえば、実質的な存在があることになり、しわざをするものはいないといえば、なにもない空虚になる。名称があり実質があるとする「前者の」立場では、この存在の世界にとどまっており、名称もなく実質もないとする「後者の空虚な」立場では、虚無にとらわれている。口で言うのも心で憶測するのもよかろうが、言えば言うほどいよいよ真実からは遠ざかるのだ。<中略>真実の道は、有るということもできなければ、また無いということもできない。道という名称そのものが、実は仮に用いられているだけのものだ。使役するものがいるとかしわざをするものはいないとかいうのは、現象的な存在の一部を言いあらわしているだけで、そもそも現象をこえた大道とは比べものにならない。もし言葉がそれで「真実をあらわすのに」十分なものであるなら、一日じゅう話しつづけてそのすべてが道をあらわしているということになるが、言葉が十分なものではないなら、一日じゅう話しつづけてもすべて現象の物の世界を語っているにすぎない。道と物とのさらに究極の真実世界は、言葉と沈黙のやりとりでは把握することはできない。言葉として話すのでもなく沈黙を守るのでもなく、議論はそこでつきはててしまう。「そこに真実があらわれるのだ。」