貨幣とは何だろうか

 

著者      今村 仁司

出版社     ちくま新書

 

 

    著者の深い洞察が非常に読み応えのある1冊である。以下その抜粋等。

    この書物ではマルセルモースの記述を次のように引用し、貨幣の背後にあるものを描いている。

「タオンガは、少なくともマオリの法と宗教の理論では、人格、氏族、土地に強く結びついている。それらは、そのマナ、呪術的、宗教的、精霊的な力の媒体である。・・それらは、それらを受け取った個人を破壊する祈りが込められている。」

    歴史的に存在した贈与財は、返戻を強要する。それは贈与財のなかにある死の表象(観念)である。だから債務(借り)もまたもともとは死の表象を含んでいるのだ。贈与と返戻、債務と返済の循環を強制するものは、それに関与する当事者の意識あるいは自己解釈がどうあれ、社会関係を「もとのままに維持すること」という広義の法的理念である。過剰も過少もなく、貧富の可能なかぎりの平準化をもたらすことを、関係の復元力、あるいは原状復帰力と呼ぶならば、贈与財のなかの死の観念は、この力の宗教的代理であると定義することができよう。

 

    まず、ジンメル・ウエーバー・ルカーチ・ベンヤミンとつづく思想史をマルクスが提出した問いを決定論から解放し、経済と他の文化領域との関係を正当な問いにつくりなおす歴史と位置付けこれを概観している。

 

    ジンメルは、人間の関係付けを距離化の原理で検討した。距離をつくりだす一方で同時にその距離を特定の幅のなかに収拾することとして理解した。すなわち人間は原初の距離化から生まれた死の表象を、物あるいは制度の形で外部化して、生と死の「近さ」の恐怖から解放されようとしてきた。

    世界のなかで複数の他人とともに生きるという人間の社会的存在のあり方は、死の観念を抱えた関係の外部化、関係の結晶化であり、死を体現する媒介の媒介という重層構造なのである。貨幣形式も言語形式も文字形式も、媒介形式であるかぎり、死の遠ざけと近づけの力学に支配されている。

    ジンメルが語る文化の形成力としての媒介形式(法・知性・貨幣)は、ある意味で悪魔的である。彼は形式を平板に語るのではなく、形式が悪の側面を莫大に拡大することをも指摘する。

    すなわち、ジンメルは人間が関係的存在として存在するかぎり、関係の結晶としての貨幣(その意味では「道具」であるが)は人間の宿命的本質であり、人間から言語が廃棄できないように、貨幣も廃棄できない。貨幣形式は不滅であると述べたのだ。

 

    ゲーテの「親和力」を貨幣小説と位置付け、次のような解釈を呈示している。

    罪なき人々が犠牲になること、まさにここに人間関係の根源がある。人間存在の根源は、カオスという神話的観念がまさに正確に把握しているものであり、そこでは死が溢れている。そこでは犠牲者となることは、特定の誰かに決まっているのではない。任意の誰もが犠牲者になりうる。そこが恐怖の源泉である。

    そして、ベンヤミンの言葉を借りて、ゲーテの世界観をこう述べる。

    「このような世界観のなかにあるものは混沌(das chaos)である。というのは、神話のもつ生命とは、この混沌のなかに流れ込み、支配者もなく境界もなしに、存在するものの領域のなかにおける唯一の力として、おのずからの場所を占めるものだ」

    混沌とは、無差別の状態である。差異がある状態とは、関係を媒介するものが制度として確立し、関係を結ぶそれぞれの項がくっきりした姿をとっている状態であって、普通それは社会関係と呼ばれる。だから混沌という無差別状態は、社会関係の解体した状態、つまり媒介なき状態である。混沌を別の言葉でいいなおすと、それは項と項の差異がないのだから、境界のない状態である。だから、この状態では境界のないものが圧倒的な勢力をもっている。境界なきもの、それがデモーニッシュなものである。

    そして、デモーニッシュな力のそうした特異な効果が発揮される場所がただひとつ、人間の世界にはある。それが媒介形式の場所なのだ。媒介形式は、制限と境界で区画された関係(これを差異関係あるいは社会関係という)を生成させる原点になる。媒介形式の場所(トポス)は、カオスとデモーニッシュなものの世界との蝶番ないし交差点になっている。

 

    著者は、これらの分析から以下の結論を得る。

    貨幣は「関係の結晶化」であり、関係を構成する時間と空間の動きを結晶化している。

    媒介形式としての貨幣は、一方では、過去の一切の時間(たとえそれが人間の想像を超えるほどに莫大であるとしても)を現在の経験世界の1個の物体に圧縮し縮減するという不可思議なはたらきをする。他方では、人間関係を解体し悲惨な結果を生み出しながらも、関係を分化させ多様にし、ひいては全地球の産物を思いもよらぬ仕方で再結合する。

    要するに、貨幣という形式は血の流れる犠牲の代理でありながら、まさに犠牲の代理であるという場所性によって両義的な魔力の保存者でもある。

 

    そして、言語と貨幣のパラレルな関係についてルソーを引き合いにして説明する。

    自然言語はルソーが否定的に語った分節言語に最初から侵食されているのであり、代理と媒介によってはじめて可能になっている。媒介形式のない関係は、人間が人間であるかぎりは存在し得ない。ルソーは媒介者への嫌悪という否定的態度から語りながら、むしろかえって関係の媒介性の原理的意味を裏から証明しているといえる。

    素材貨幣はなくしたり代替できるが、形式としての貨幣は廃棄不可能である。なぜならそれは、人間関係に内在する暴力の制度的回避の装置であるからだ。しかしわれわれは、貨幣や商品の優越的支配が別の災厄をもたらすことも知っている。この両面を承知しつつ、同時にこの隘路をどうきりぬけるのか。これが貨幣と精神との格闘の長い歴史が教えることである。