市場感覚

<市場感覚のもとにあるのはバランス感覚だ。バランスとは何か、対称性の保持か?>

          以下はマッハ「感覚の分析」による

                    直観と物理的経験と概念的理想化は学問的幾何学において協働している三つの契機である。これら三つの契機のどれか一つを過大に評価したり過小に評価したりすることから、幾何学の本性に関する学者たちの見解に甚だしい懸隔が生ずるのである。幾何学の構築における各契機の持分(アンタイル)を精密に分別することによってのみ、正当な捉え方が基礎づけられる。われわれの身体の運動性機構は敏速な移動に資すべく対称的にできているが、このため、たとえば対称的な空間形象の両半はわれわれの直観には等価に見えるのである。しかしこの両半は重ね合わせることができないがゆえに、物理学的・幾何学的見地からすれば、決して等価ではないのである。これらが物理学的に等価でないのは、反対方向の運動や向きの反対な回転が等価でないのと同断である。これに関するカントのパラドックスは、今考察している諸契機を充全に分離しないところから生ずるのである。

          またこうも言っている。

                    歴史の証言によれば、ある種の幾何学的命題の知識へと最初に導き、ある物体の一定の測度がその物体の別の測度と共々に規定されていることを明らかにしたものはこれまた経験である。学問的な幾何学は測度相互間の依属関係を探し求め、余計な測度を省き、他の事実がそれらの論理的帰結として与えられるようなもっとも単純な幾何学的事実を探し出すという経済的な課題を担っている。

          したがってマッハによれば単純を指向する経済原理がバランスのもとにあると言っているのだろう。

                    市場感覚のもとにあるのがバランス感覚だというのが私の結論だが、マッハは逆のことを言っている。バランス感覚のもとにあるのが市場原理(経済原理・経済性原理)であると言っているのだ.はたしてこの関係はどうなのか。私の考えでは市場感覚とはある意味で生命に対する脅威・いわゆるペリルへの備えとしてのバランス感覚と同義である。すなわち、綱渡りをするときのバランス感覚だ。マッハは効率性を求めた結果としての無駄のない関係を言っている。マッハの市場感覚は直線的であり、私の市場感覚にはゆらぎがあるとでも言おうか。

<市場感覚の背後に生物としての規範的な判断力がかかわっているか?>

                    F.ヴァレラの遺作となった「身体化された心」にはナチュラルドリフトによる進化という彼の考え方から次のような主張がなされている。これらは適応主義的自然選択説を放棄する主張だ。以下がその論点。

                    まず、第1のステップは規範的な論理を違反的な論理へ、許容されていないことを禁止する発想から禁止されていることを許容する発想へ転換する。

                    進化のコンテクストでは、このシフトは、適応度を高める規範的プロセスとして選択をとらえないことを意味する。違反的なコンテクストでは、自然選択を作動するとみるものの、変更した意味においてである。つまり、選択とは、生存と繁殖に適合しないものを取り除くことである。生物や集団が多様性をもたらし、自然選択は生存と繁殖という二つの基本条件をみたすものの存続を保証するだけなのである。

                    この違反的な方向性により、生物学的構造の全レベルにある莫大な多様性が注目される。実は、現代生物学の主要論点のひとつは、かくもおびただしい多様性が系統の連続性を維持する基本条件に適合し、いかなる仕組みで組み込まれているかということなのである。

                    そして、第2のステップは、最適化ではなく、「一部充足」(次善の充足解を得ること<satisficing>)として進化のプロセスを分析することである。ここでは、存続するのに十分な完全性を有する構造ならばなんでも受け入れるおおまかな生存フィルターとして選択が作用するのである。この視点からすれば、分析の主眼はもはや形質ではなく、その生活史を通した生物全体のパターンになる。

                    進化プロセスに関するこのポスト・ダーウイン主義の概念について最近示唆された別の比喩は「プリコラージュ」としての進化である。つまり、ある理想的な設計を達成するからではなく、単に可能だからという理由で部品や部材を複雑に組み合わせることなのである。こうなると、進化の問題は、最適応の必要条件によって正確な軌道をたどるということではもはやない。複数の生存可能な軌道をその都度いかに取捨選択すべきかという問題になるのである。

                    最適選択から生存度へ発想を転換して得られるさらに興味深い帰結のひとつは、形態学的・生理学的な形質や認知能力の正確性と特異性が生存とは一見して無関係であることの説明がつくことである。生物体がどうみえるかとか「何のようであるか」ということの大部分は、生存や繁殖の制約条件では全く「決定されない」のである。

<非統語的コミュニケーションから統語的コミュニケーションへの進化で人類は市場感覚を獲得したのか>

                    自然選択が統語的コミュニケーションへのヒト言語の遷移にかかわっているか、その自然選択は上記ヴァレラの言う自然選択か。NATUREの最近の論文で言葉の基本的増殖速度が算定されている。この考え方からするとわれわれが市場感覚という言葉で述べている選択は質の選択ではなく、生み出されている生成物の量の問題だということになる。

                    もし、質の問題ではなく量の問題だということであれば、政治の仕組みには根本的な誤りが存在する。民主主義という仕組みは特定の個人の為政者を選出し、その個人の選択を集団の選択に読み替えることだから。

<暗黙の拒否は暗黙の了解に勝る>

                    日本の企業では暗黙の了解を前提とした組織運営を目指しているが、米国ではそもそも情報の共有などはじめからあきらめているという指摘を法政大学の三山元(学生)がしている。これは、コンピュータ言語のプログラミングの記述の仕方から彼が見出したアングロサクソンの思想の本質的な部分だ。ファイアーウォールの思想の根底に必要な情報だけを選択し、残りのすべてをその都度捨てるという思想を見て取っている。無限に近い情報を何とか生かして、その中から有益なものを探そうなどとはじめから考えていないというわけだ。つまり、現時点で必要があり理解可能な情報だけを選択肢のひとつとしてピックアップする。あたりまえだが日本人のもっとも苦手とする思想だと彼は指摘している。結局これがもっとも経済的で、生存コストの削減につながっている。

<適応のメカニズムにおけるコミュニケーションの経済性の要請>

          グレゴリー・ベイトソンの記述によるとわれわれのもって生れた平衡の要請には無駄が多いということが言われている。

                    順化も習慣形成も、まだまだ個体の一生のうちでは逆戻りが可能なものだ。そして可逆性を保っておくということは、適応のメカニズムにおけるコミュニケーションの経済性からすると、不利にはたらく。逆戻りの可能性を残しながら新しい値へと移行するということは、その変化がホメオスタティックな、エラーによって活性化する回路によってもたらされることを意味する。そこには、その変数にとって好ましくない、危険な変化が起きるのを察知する機構がなくてはならないし、修正的な動きをスタートさせる因果の連鎖がなくてはならない。こうした複雑な回路全体が、可逆的変化が維持されている間じゅう、その目的のために使えるようになっていなくてはならないのだ。可逆的な変化というのは、回路全体のメッセージ経路をかなり「食いつぶす」、割高の変化なのである。

                    また、賢明な法律制定者なら、人々の行動を律する規準をむやみに書き換えるようなことはしないだろう。すでに人々の間で習慣となったことを追認するにとどめるはずだ。人間社会にも、数々のホメオスタティックな回路が存在する。新たな規制が導入されれば、社会システムのバランスのために、それらの回路が活性化される強引な改革は、それらの回路に支払能力を越えた負担をかけてしまうのだ。と。