名前

 

    誰が言い出して自らの意思を反映する行動を起こしているか。責任者はだれだということ。

    情報には情報源があり、人名がある。ものごとを認識したのは人間であり、その個体が有意な情報を発信している。

    人間のところで、混沌の中から秩序が生まれ、そこから発信された情報は、拡散してエントロピーが増大している。人間のところで、秩序は最大値をとっている。

 

    世界的発明・発見では誰が当事者かよくわかっている。多少時期がずれていてどちらが最初の発見者かわからない場合でも、2人のうちのどちらかであることはたしかであると言える。

    しかし、多くの人の日常生活における知恵の源泉は誰だろう?人類の知恵の99%以上は誰の知恵かわからないのが実態だ。われわれの日常生活は多くの名も無い人々の知恵の上に成り立っている。おそらくこれらの知恵の背後には多くの犠牲が存在しているだろう。

 

    世の中でいろいろとことが運ぶのは、人の意思表示による。関連する事柄にもっとも利害関係のあるひとの意思が中心となって物事が決定される。

    したがって、外部に、ほかの人に発信されない意思は無効である。いくらこう思っていた、自分は違うと言っても世の中では通用しない。

    はっきりと自分の意思を表示することの重要性はここにある。意志と意思は違うのだ。

 

    <いわれたすべてのことには、それをいった誰かがいる>

    <すべての行動は認識であり、すべての認識は行動である>

    はじめにかえってこの2つのアフォリズムを検討すれば「人名」にははじめのアフォリズムのほうが適合するかもしれない。

    すなわち、記述にはつねにそれをおこなう主体・観察者がいる。あらゆる反復的思考はひとつの世界を生起させる。

    そういうものとして、反省的思考とは、ある特定の場所である特定の誰かがおこなった、具体的人間によるアクションなのだ。

 

    明白な矛盾に対する解決策として対立から遠ざかり、質問の性格そのものを変えてやることによって、より広いコンテクストを包み込むという方法がある。

    あたえられたコンテクスト、つまり観察者として提供する問いにより、明示的・暗黙的に確定された領域において有効・適切な行動が観察されたとき、そこに認識の存在がある。

 

    著作物の違法コピー問題。誰が著作物を見ることができて、誰が見てはいけないのか。ここに問題の本質がある。

    暗号を鍵としてかける者は著作物に対して権利を有する者である。しかし、現実にはその者から委任を受け、鍵をかける。これが世界でただ一人ということはありえない。そして、鍵を読み解くのは利用料金を支払った者。これらの人間は別の世界にいなければならない。

    鍵をかける関係者が増加すればするほど、しかも鍵をかける肝心の鍵のなんたるかを知る者が増加すればするほど、故意または不注意によるリスクは飛躍的に増加する。計算上の鍵の安全性など直ちに無駄となる桁違いのセキュリティホールができている。こんな子供でもわかる理屈をだれも指摘せず、おおまじめで暗号を開発しているのは狂気の沙汰だ。

 

「アナログ型とデジタル型のコミュニケーション」という題でベイトソンが記述していること

    名前というものは通常、それが名指すクラスと純粋に慣用的で恣意的なつながりを持つにすぎない。「5」という数字は、ある量的な度合に符したただの名前なのだ。わたしの電話番号があなたの電話番号より大きいと言っても無意味だが、その理由は、電話交換のコンピュータ・システムが純粋にデジタルなコンピュータであって、なにかの度合や大きさではなく、マトリックス上の位置を名指す信号によって作動しているという点にある。