教育について

 

    平成1317日の日経新聞、春秋に「このところの教育改革論議では出口の見えない大人社会の閉塞感が過剰な注文となって彼らを萎縮させているようにもみえる」と大学卒業したものの就職しない若者のことを書いている。コクトーの「青年は確実な証券を買ってはならない」と言う言葉も同時に書いている。

    若者の力は無鉄砲な突進により生まれてくる。それは生命の自然な勢いであり、時として野蛮な行動となることもあるものの、新しい局面は若い力でないと生み出しえない。分別臭い若者には何ものも期待できない。この力をどのように引き出すか。これが教育の使命であろう。

 

    平成1321日ニュースステーション、町村文部大臣の「悪しき平等が蔓延している」発言。同感。ニュースステーションでは公立中学と私立中学の比較を行い、コストの違いを述べて不平等が拡大していると言っているが、ピントがずれている。

    平等がネガティブに働いているのがいじめで、嫉妬の蔓延している事実に目をそむけて金銭で教育現場の価値をうんぬんする姿勢こそがこの風潮を助長している。金があって、いじめのない私立中学へ逃げ込めればよし、そうでなければ不平等だというわけだ。

    審議会で求められたのは、その公立学校のいじめのある現場の実態に、正面から向き合った解決を求める議論であって、逃げることのできない子供たちが不平等な状態に置かれているから、金銭で何とかせよなどという話ではない。

    甘やかそうとする大人がこのような態度をとるから、子供たちは何が正義かの見分けがつかなくなり、私立学校へ逃げ込めればよしとする価値観は、自分と同類の子供たちを異常な常識を持つ人種として無意識に排斥するのだ。

 

    平成13224日経社説は「わが意をえたり」という意見だ。社会の屈折した平等願望という表現を使っているが、この本質を見極めることの重要性にだれもが気がつくべきだ。

    平成14227日経春秋で中教審の教養教育提言を意外と書いている。そうだろうか。反復練習・形式の重要性。知識の起源に感覚がある。など私には当然の話でなにをいまさらということだ。私が時代錯誤なのだろうか。中教審の提言こそその時代の流れに掉さしたということなのか?なにが世の中で多数意見なのかこちらのほうが混乱する。

    平成141225日日経記事。指導力不足教員2年半で399人認定。あまりにもあたりまえのことをニュースにしなければならない現状はやはり異常だ。なにが正しいことか教育現場の関係者は胸に手を当ててよく考えるべきだろう。世の中の多数意見はなにかということを。

 

    平成15113日成人の日の日経社説。自分が後ろ向きの考えしか持っていないなら、若者にいったいなにを物申す資格があるというのか、情けない。曰く、少子化の影響でひとりひとりの責任が重くなっていると。少子化したのは誰の責任なんだ?しかもまた、新成人の世代に現状認識や人生への真剣さが薄いのではないかと真剣に思うと。これまでの暗い話の現状認識と解決を若者に期待しているというトーンだ。こんな都合のいい大人の理屈が若者に拒否されるのだ。立派な若者は例外なく立派な大人の背中を見て育っている。日経の社説のような考えで新成人に接する大人が後を絶たないから若者は反発するのだ。夢のない後始末の話ばかり聞いて面白いと思うものがいたら考えものだ。後ろ向きでなく希望の持てる話こそ若者へのはなむけの言葉にふさわしい。

 

    教育者といわれる人がどのようなことを実践し、言っているのか。家庭内では親がどのようなことを実践しているのか。実践の重みは可能なことの範囲を明示することにあるのではないか?こうあるべきだとか、こうするのが正しいということを明示するのは教育ではない。禁止のルールは教育にふさわしくない。いわばなんでもありのルールの中で身に付けるべきことが見えてくるはずだ。これが種の存続の知恵であり、伝承である。

    次善の充足解を得るという生存に関する十分条件が何かを教えることが教育の本来の目的だろう。正確性が求められるのではなく、存続しうるという事実が重要なのだ。ハンディキャッパーの尊厳と存在意義はまさにここにある。

    寺田寅彦の教育論は、世の中の事実を下手な解釈をつけずに事実として見せることだと言っている。これも自然を信じ、自然の教育効果、子供の判断力を信じる思想だ。