言語

 

    言語は生きている。人々の話す言語は、ゆったりと変化し、しかも同一性を保っている。

    人は感じることを表現するのに種々の表現方法を持っている。そして不幸なことにどれも中途半端である。言語・芸術・身振り・視線・叫び声。

    事実を切り取る言語の選択は瞬間の決断である。一方ものを考えるのは言語で考える。言語には長い歴史の重みがあり、ひとびとの知恵が詰まっている。

    言語と言葉。微妙だが言語には一般化された常識が含まれ、感覚の真実に迫る限界がみえる。個体としての人間はどこまで言語を自分のものとすることができるか。則にしたがって則をこえずとはどのような事態か。

    裏返して言えば、人間は母国語の限界を超えることはできるのか。発想の限界はどのように突破できるのか。想像力の源に言語の厚い壁がある。

 

    世界の言語のうち2500以上が滅びようとしている。これらの言語を使用している人々にとって、自分の世界の消滅である。生まれたときからの自分の母言語がなくなるということはどういうことか、想像するだけでも恐ろしい。しかし現実に容赦なく事態は進行している。そして、郷愁や同情の余地なく、問答無用の力が弱小言語を押しつぶしているのだ。生存競争の常で、淘汰された言語は二度と使われることはないだろう。こうして永年にわたって蓄積された民族の知恵、地域の生活の知恵は葬り去られていく。

    平成14年のユネスコの発表では3000の言語が失われようとしているそうだ。いずれにしても貴重な知恵が永遠に失われようとしていることに変わりない。

    1200の言語をサンプリングして事例を挙げた驚異的リンク。Language Museum

    危機言語調査のサイト。環太平洋の言語

 

    R.M.W.ディクソンの「言語の興亡」(大角 翠訳 岩波新書)に以下の記述がある。

    どんな言語も、彼らがどう考えているか、何に価値を置いているか、何を信じているか、外界をどう分類しているか、彼らの生活をどう秩序だてているかなど、その話者の世界観を内に含んでいる。言語が死ぬということは、人間の文化の一部が失われるということだー永遠に。

 

    動物の種の数が多いところでは人間の言語の多様性が観察されている。人間の多様性が他の種と同様に環境に影響されているという可能性も記載されているが、気候や、降雨量など多様性の原因になっている熱帯雨林などの関連性が想像されて興味深い。要は、生命にとって多少劣悪な遺伝子を持っていても、死滅することなく生存を可能とする環境さえあれば、多様性を育む環境となりうるのではないか。言語とのアナロジーは多少コミュニケーションに障害があっても孤立して生活していける食の環境だろう。

 

    生きた言語を集めた日本人によるサイト言語の杜。インターネットでこれだけ集められる。

 

    限定された意味を限定されない方法で使う。非統語法的コミュニケーションから統語法的コミュニケーションへの遷移が動態的に解明されうるか。このような試みが単に量的な限界の表示を超えることができるか。そこが最も問題だ。統語法の秘密が言語の秘密のひとつだから。

 

    国立国語研究所外来語委員会の第1回「外来語言い換え提案」はこんなにもいろいろな意見を巻き起こしている。福沢諭吉の外来語作成に倣おうというのだろうが、才能の無い者がねじまげて考えるとろくなものにならない見本といえる。