コミュニケーション

 

        コミュニケーションは人類だけのものか?おそらく、類人猿、イルカなどで高度なコミュニケーションが観察され、その他の動物でもコミュニケーションが見られるということは人類だけのものではないというのが真実であり、さらに言えば動物一般、生物一般に存在するものではないかとも思える。

        コミュニケーションはどのようにしてなされるのか。意思が介在するのか?無意識のコミュニケーションが人類に見られるとすれば、気の遠くなるような進化の過程の中で組み込まれた行動か?そしてまた、人類が意識的にコミュニケーションをおこなっているのは、これらのコミュニケーションとは別物か?

        コミュニケーションには分からないことが多く、非常に問題は多岐にわたる。言葉との関係、非言語的コミュニケーション、物質の相互作用、情報伝達物質との関係、コミュニケーションは光の伝播速度を超えて可能か?いろいろと疑問に思えることがある。このテーマは奥が深い。 

        「取り替え子」で大江健三郎が可能性を追求したコミュニケーション。真に相手のことをわかるか。

 

        象のコミュニケーションで新説が出ている。本当にこんなことがあるのかどうかわからないが、30kmも離れたところとのコミュニケーションなら驚きだ。

        インターネットの歴史は非常に興味深い。ネットワークが成長する様子はまさに生命の繁殖する様子にそっくりだ。このアナロジーの背後には深遠な真理が存在する。

 

        人類だけが言語によるコミュニケーションをとることができるのは特定の遺伝子のはたらきではないかという説が出ている。この背景には昨年発表された同じ遺伝子による言語障害の原因特定の研究があって、これに触発されたと思われる説だが、どこまで可能性があるかといえば限りなくゼロに近いのではないか。言語障害の研究は間違いがないことだとしても。

 

        イルカのコミュニケーションは人間に聞き取れる部分とさらに周波数の高い部分で構成されているそうだ。人間にも理解可能なコミュニケーションの部分は動物特有のエリヤといえるのだろうか。それとも単に人間がねじまげてそう解釈しようとしているだけなのか。

        タカラが1週間前に発売したバウリンガル、人間がペットに抱いているコミュニケーションについての期待と感情をみごとに商品化している。イグノーベル賞も当然だ。

        スペインで作られた人間の赤ちゃんが「なぜなくの?」も同じ発想と言える。すなわち人間の赤ちゃんは泣き声でコミュニケーションをはかろうとしているという考えだ。普通の母親なら泣き声は最後の訴えであって、表情で十分コミュニケーションがとれているとは思うが、母親以外はこれが必要かもしれない。

 

        発信点と体系(System)としてのコード、それにコードの間の曖昧な関係が生じるのは、体系としてのコードを措定する目的が、ある発信点において起こる出来事と一致するはずの意味的な単位を統辞的な単位によって伝達しようとするからである。この意味では、統辞的コードはその最終的な目的(および、外界で現に起こることを反映しうるというたてまえの能力によってはっきりと特徴づけられた意味体系)によってきわめて強く条件づけられている。(U.エーコ「記号論」)

        人間には宿命づけられた思い込み、コミュニケーションに関する勘違いがあるとエーコは指摘している。このコミュニケーションに対する期待と感情がまた悲劇をもたらしているのだ。

        立教大学の都築教室ではゼミ生の谷本弥生が「非言語コミュニケーション」についてさまざまな切り口での分析をおこなっている。とくに体部の動き(キネシクス)や非言語的発声(パラ言語)についての記述がコミュニケーションの重要な部分として語られている。

        グレゴリーベイトソンが言っているように、プロの役者や信用詐欺師などこれらキネシクスやパラ言語をまるでコトバのように思い通りに操れる人間がいるが、キネシクスで嘘がつける彼らの場合、ノンバーバルコミュニケーションの持つ特別な機能が阻害されることになる。「本心をさらけだす」ことが普通の人よりむつかしくなり、「本心から言っているのだ」と他人に信じてもらうことは、もっとむつかしくなる。